クラブ設立の経緯について


 初代会長 JR3PIO  関森源治

「訃報」    2015年7月16日

去る7月16日(木)、SARCの設立にご尽力頂きました関森 源治様がお亡くなりになりました。

メンバー諸兄の中には、身近に接せられ、アマチュア無線という趣味のみ ならず、人生の師として、ご指導を受けた方もおられたと思います。

ここに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

                             合 掌

 



パナソニック松愛会ハムクラブ設立10周年を迎えお目出度うございます。

設立の経過について、私のアマチュア無線、松下電器との関係をアイコムの
ホームページ週間ビーコンに簡単に掲載しました。この記事は電波新聞の元記
者吉田さんより取材を受けましたが、急逝され遺稿となりました。 
ここで再度詳しく記述いたします。 

私は戦時中に城東職工学校電気科で教育を受けて後、松下航空工業(株)に
昭和19年に入社して、機械工場であらゆる工作機械、機器工具を扱いました。

これは後々の工作、知識に大いに役立ちました。無線への興味を持ったのは
特攻隊を志願して三重の航空通信部隊に入ってからでした。
初めて地一号軍用無線機を扱い、約1年間対空戦闘をしながらこの無線機で
東京ローズの謀略放送を密かに聞いたり原爆と電子戦に破れた終戦の天皇
放送も聞きました。

戦後、進駐軍の無線機を見て、彼我のあまりの技術の違いに愕然としました。 
見てるだけでは物足らず蒐集し10数台を入手し益々無線機の魅力に取り
憑かれました。

当時、健保病院の事務長をしていましたが
縁あって松下病院に招かれ戻り
ました。その理由はこれ迄は病院経営は本社が運営していたが『医療は専
の健保に任せなさい』との相談役の鶴の一声で専門職の人材を必要としたの
でした。
松下幸之助相談役はご自身の健康のためと経営の前線拠点として30数年間
病院に寝泊まりされました。 
時々、相談役に呼ばれ、従業員の様子を聞かれました。 何時も従業員の事を
心配され良く面倒をみてやって欲しいと言われました。 
「現在は従業員より地域の方が7割です」と申し上げると「地域の方は大事な
お客様、お得意様なので大切にするように」と言われました。 
このように相談役は人とのふれあいを大切にしておられました。

私の〈人に尽くす〉の信念は益々高まり、後々クラブを設立する精神的な支えに
なりました。

更に1979年に設立し、30周年を迎えた大阪2mSSB愛好会(会員248名
で設立)に同好の方々が多く集まり、親睦を高め会員から大層喜んで頂いた
体験も、このクラブ設立の励みになりました。
 

この頃、重役や事業部長は頻繁に松下相談役詣でに来られました。
従業員も病院診察に検診センターに
来られ、この時多くの方やアマチュア無線
家とお会いできました。

当時の1970年頃からアマチュア無線は大いに普及してキングオブホビ−は
いつの間にか社会的に認知され、一般的な趣味として普及しました。


松下電器もご多分にもれず、ハムを対象とする業界に進出してRJXシリーズ
を発売し、RJX−601等
ヒット商品もありましたが、その後10年間13機種を
販売し、この業界を撤退しました。

当時、松下電器には多くの優秀なアマチュア無線家が在籍されていて、既に
松下無線クラブは1962年に設立されていました。
ラジオ、電池、モ−トルを三本柱として事業を進めてきた松下電器も、技術の
進歩とともに多角経営で多くの電化製品を製造する会社に進化しました。
アマチュア無線を趣味とする方々は多くの事業部や関係会社でハムクラブを
作り活動していました。
中枢的なラジオ事業部を初め、技術本部、無線研、電池、録音機、モートル等
の方々でした。この間の経緯については、現役のMARCの歴史になるので
詳しいことは旧ラジオ事業部、録音機事業部出身の当時の事情に詳しい方に
説明はお譲りしたいと思います。


 [松愛会ハムクラブSARCを設立]

1990年後半になり、松下電器も多くの定年退職者が輩出することになりました。
その方々のために松愛会が設立されました。松愛会は全国的に組織され、
色々な文化活動が行われていたのが目に留りました。

しかし、このままでは松下のアマチュア無線仲間はバラバラになり、巡り会う
機会もなく永久に離ればなれになるので、一堂に会して親睦を暖める事が
出来ればベタ−であるとの結論に達し、設立を決意しました。
即ち、松愛会を基盤としクラブ設立に決心しました。
相談役の精神や、大阪2mSSB愛好会設立の経験を活かし、人とのふれあい
を大切にして文化活動と、全国レベルでのグループ交流、無線技術の向上を
はかり親睦第一に進める事にしました。そこで松下のハム仲間に声をかけて
集まって頂き設立準備を開始しました。

問題は松愛会ハムクラブは松愛会会員のみであり松下無線クラブは別の組織
とする必要がありました。即ち現役組は入会できないのです。
但し退職して松愛会会員になると自動的にスライド入会出来るように門戸は
開けておきました。1998年4月21日に40名の有志に呼びかけて松愛会ハム
クラブ(SARC)を設立しました。

松愛会事務局に申請し、松愛会ハムクラブは正式に文化部として認められ
ました。発足にあたり1つの問題が発生しました。
それは横浜で既に1997年9月松下通信工業(株)OBを主体とした松愛会ハム
クラブが設立され文化活動をしていました。
早速、故JA1WQ古場さんと連絡を取り結果、横浜はSHC/Yと名称を変更
されて譲って頂くことになりましたが、大変ご迷惑をかけたSHC/Yには感謝の
他ありません。

2つ目はクラブ局の開設です。松下には色々なクラブがありましたが歴史があり
中枢的存在であった旧ラジオ事業部のJA3YEAに的を絞り復活を目指しました。
然し日時の経過のため行方が判らず、一時は松下の他のクラブコールで申請
する案もありましたが、このクラブコ−ルの復活することに拘りました。 

何とか免許状の所在が判明して譲り受け、一件落着して開設にこぎ着けました。
設立後、今日に至るまでの事は皆様もご承知の事で省略しますが、記憶にある
のは各種の催しの開催です。

アンテナのナガラ、無線機メ−カ−のアイコム、ヤエス、ケンウッドの技術者を
招いての展示、技術講習会やパソコンを使っての画像処理講習会を開催して
JA3TB矢野さんを講師に迎えてご協力頂きました。 
これらの関係者には厚くお礼申し上げたいと思います。

私の後に長期間に亘り会長の重責を果たして頂いた会長JA3IAS岡田茂美
さん、事務局長JR3IAL中野さん、会計JA3RET村田さんや、監事JA3ZR
竹田さんや、最初にホ−ムペ−ジを立ち上げて頂いたJA3BR安藤さん、
後を引き継ぎで頂いたJA3MTA棚橋さん、さらにJA3FWU岡田誠さんの
ご努力には感謝の他ありません。

クラブ局はJA3BTS瀧川副会長の努力により会社のご理解・支援を頂き、
松下電器の社員研修施設である人材開発カンパニー(HRDC・枚方市内)の
敷地内に常設されJARL登録クラブになりました。

会社提供の冷暖房完備のシャックルームには皆様よりアンテナ、リグを初め
色々な機材を寄贈頂きました。高価なリグの寄贈を頂いたJA3JF西村さんや、
シャツクの整備をして頂いたJA3CMY岩田さんやアンテナ架設作業に参加の
皆様のご協力には厚く感謝申し上げます。

その後、昨年のタワー移設について作業に参加して頂いた皆様方、特に高所
作業に携わって頂いた西さん、井元さん、神内さん、その他の皆様には危険を
顧みず大変御苦労をかけ感謝にたえません。
会員のボランティア活動で移設工事も無事完了したのは喜ばしい事でした。
お陰でSARC会員は常時オールバンドでの運用が可能になりました。
なお、PanasonicMARC(JA3YEB)メンバーもこのシャツクを運用できるように
相互連携しています。

現在、松愛会横浜ハムクラブSHC/YはJA1ANF小森田会長で、アクティブに
活動され関西とも交流をしています。 SHC/Yの今後のご発展を祈ります。

最近、社名変更に伴って、『パナソニック松愛会ハムクラブ』と改称されました。 
2009年度は役員も改選され、最近は会員間のMLもJA3ATJ坂井さんの努力
で開通しました。
拡張バンドの7MHzで各地区参加のオンエアミ−ティングも行われ、田辺新会長
の下に色々な会員の総意による事業が行われる事になり喜ばしい事と存じます。

今後を期待してパナソニック松愛会ハムクラブの益々の発展を願い、併せて
パナソニック松下無線クラブの発展をお祈りいたします。

                                            以上